さて、カジノ界の巨星が落ちました。訃報です。
コロナ禍によって保有資産の大部分を占めるラスベガスサンズ社の株式価格が減損したものの、2020年の世界長者番付では28位にランクインした、文字通り「カジノ業界の巨星」シェルドン・アデルソン氏。米国マサチューセッツ州のボストンで、タクシードライバーの息子として生誕し、ワンルームマンションの小さな一室で育った同氏は必ずしも裕福な生まれではありませんでした。
そんな彼が稀有な商才を示し始めたのは12歳の時、地元で小さなニューススタンド(日本でいうキオスクにあたるもの)を営業し始めたことにあります。当時彼が12歳で営業していたニューススタンドにおいて、子供向けのキャンディーマシン(「当たる」とキャンディーが貰える子供向けゲーム機)を設置運営していた事が、後のカジノ業界における成功につながったなどと、一部メディアなどでは報じられていますが、その真偽は判りません。その後、アデルソン氏は大学に進学するも、それを中退。同氏は座学よりも、専ら「実業」に興味があったと言います。
シェルドン・アデルソン氏が米国のビジネスコミュニティの中で広く知られる様になったのは、1979年同氏が48歳の時。コンピュータの利用が徐々に広がり、主にビジネスで利用される様になった初期の頃に彼が立ち上げたコンピュータ展示会「COMDEX」が世に知られる様になってからでした。その後、COMDEXはコンピュータの一般家庭への普及につれて着々と大きくなり急成長、世界最大のコンピュータの祭典として知られる様になりました。
そして、アデルソン氏が「カジノ」に関わることになったのは、1988年に彼が行ったラスベガスカジノ、Sandsの買収。但し、彼の当初の買収の目的は「カジノ」に重きがあったわけではなく、あくまで当時彼が主たる事業としていたMICEビジネスでした(※MICE:展示会や国際会議などの産業の総称)。
1980年代から大型リゾートホテルの開発が進み、一気に「世界のエンターテイメント首都」として知られるようになったラスベガスでありますが、同時にその街の持つ客室供給量の大きさに注目が集まり、「万人単位」の参加者を一挙に集める世界規模のコンベンションや見本市が毎年開催されるMICE都市としても知られるようになっていました。そして、そのラスベガスを拠点にしていた見本市の一つが、アデルソン氏が率いるCOMDEXであったわけで、同氏はそのMICE事業の拡大を目的として当時のSandsの買収を行ったのでした。アデルソン氏は、買収したSandsに隣接する用地に「Sands Expo&Convention Center」を建設、1990年に開業した同施設は開業当時、世界第2位の大型コンベンション施設として知られました。
1980年代当時から「MICE都市」として世界的に知られ始めていたラスベガスではありましたが、当時のMICEはあくまでカジノの本業であるエンターテイメントに付随するものであり、「主たる機能」ではなかったのも事実です。特に当時のラスベガスは、アデルソン氏と双璧をなすカジノ業界の「カリスマ経営者」として知られたスティーブ・ウィン氏の全盛の時代。スティーブ・ウィン氏は1980年代から1990年代末にかけて、まるでテーマパークの様なエンタメ特化型カジノ施設を市内で数多く開発し、そこに脚光が集まっていた時代でありました。一方で、アデルソン氏の買収した旧Sandsは、必ずしも当時ラスベガス内で流行していたエンタメ要素に強いカジノ施設ではなかった。寧ろ、当時はあくまで「付随する機能」でしかなかったMICE施設を中核とした相対的に「地味な」施設であったのは事実です。
ところが、その「地味な」存在であったSandsの経営を通して、MICE施設とカジノのハイブリット化という当時のカジノ業界には存在していなかった新しい施設開発の潮流を確たるものにしたのが、まさにシェルドン・アデルソン氏でありました。同氏は1990年に開業した自身の「Sands Expo&Convention Center」とそれに付随する施設の経営によって、このビジネスモデルの成功に確信を持ち、カジノ開発業者としての道を本格的に歩み始めます。
1995年、アデルソン氏は自身が保有していた「虎の子」であるCOMDEXの運営権を日本の孫正義氏が率いるソフトバンクに売却。そこで得た8億ドルを原資に老朽化していたカジノ施設の再開発を行いました。その様にして完成したのが1999年開業のベネチアン・ラスベガス。その後のシェルドン・アデルソン氏のカジノ開発における「マスターピース」となる施設でありました。ベネチアンは、当時のラスベガスにおいて最高級と称されたスティーブ・ウィン氏による代表的な開発施設・ベラージオと並んでラスベガスを代表する高級カジノとして知られる様になりましたが、一方でその開発コンセプトは全く異なります。ベネチアンはカジノを中核とし、ショッピングセンターなどエンタメ施設は内包していますが、その主たる機能はビジネスコンベンション向けの施設。「Sands Expo&Convention Center」を中心としてビジネス客を大量に集客し、同一施設内で宿泊機能、料飲機能、「ビフォーMICE&アフターMICE機能」すべてをオールインワンで提供する。その「ビフォーMICE&アフターMICE機能」としてギャンブルやその他エンタメ施設が提供されるというカジノ施設でありました。
それまで、ラスベガスはレジャー客を中心とした週末および長期休暇の稼働が中心の街でありましたが、アデルソン氏が興したMICEを中心とした開発コンセプトは逆に平日に開催されるMICEイベントを中心にビジネス客が集まり、週末は「出張時の延泊の楽しみ」として稼働する。Sands社は、この様なカジノ開発をそれまでのエンタメ施設を中核にレジャー客を集めるカジノと対比する形で「MICE型カジノ」と呼称しました。この開発コンセプトには業界同業他社も同様に追随する様になり、レジャーとMICEはカジノの稼働と収益を高め為の両輪となりました。この頃からシェルドン・アデルソン氏は先にご紹介したラスベガスにおけるエンタメ型カジノ開発の基礎を築いたスティーブ・ウィン氏と並びカジノ業界におけるカリスマ経営者の「二大巨頭」として数えられる様になります。
そして、何よりもこのアデルソン氏の業界への貢献は、ラスベガスに留まらず「カジノ合法化」を世界中に広めたことにあります。2000年代に入って、世界の主要国は国際観光競争の中で「ビジネス観光」分野の強化にこぞって乗り出し、そのひとつの大きな柱として「MICE振興」強く打ち出しました。その中でスポットライトが当てられたのが、シェルドン・アデルソン氏の想起した「MICE型カジノ」という開発様式。MICE機能のみならず、同一施設内で宿泊機能、料飲機能、「ビフォーMICE&アフターMICE機能」すべてをオールインワンで提供するこの様な施設開発の様式が、各国のMICE誘致にとって強力な武器になるということが社会的に評価されることとなり、これが各国のカジノ合法化の大きな一要因になりました。
そして、その世界中で広がるカジノ合法化の波に乗り、アデルソン氏率いるSands社は世界中の新市場へと進出。MICE型カジノ分野では追随する同業他社を寄せ付けない圧倒的な競争力を持って、世界中のあらゆる将来有望な新市場における競争入札で勝利。いつしかアデルソン氏率いるSands社は常勝軍団と呼ばれる様になり、世界最大のカジノ企業となりました。
今回、87歳で没したシェルドン・アデルソン氏でありますが、同氏は足腰が弱くなった晩年も電動車椅子とプライベートジェットで全世界中を飛び回り、精力的に活動していたことで知られています。また、晩年は冒頭でご紹介した通り多くの政治家のパトロンとしても知られる様になり、特に自身の出自であるユダヤ系米国人コミュニティの地位向上の為に様々に尽力をしたことでも知られています。ちなみにユダヤ教は必ずしもギャンブルを戒律で禁じているワケではありませんが、シェルドン・アデルソン氏自身はプライベートではギャンブルを好んで遊ばないことを事に触れて表明をしており、「ギャンブルをしないカジノ経営者」の代表格としてカジノ業界では知られていました。
同氏がカジノ業界内外にもたらした様々な業績は、永遠に歴史に刻まれることでしょう。親族、近親者の皆様方にはお悔やみを申し上げます。
ちなみに、左派系メディアの方々は先の米国大統領選にて敗退したトランプ・前大統領に紐づけて、「トランプ氏の大口献金者」などという側面を強調したがっている様ですが、彼は自己の政治姿勢に基づき共和党系の政治家を支持&支援してきただけであって、トランプ氏を殊更に支援していたワケではありません。
米カジノ王、アデルソン氏死去 トランプ氏の大口献金者
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/691832
【ニューヨーク共同】トランプ米大統領への大口献金者として知られるユダヤ系富豪で米カジノ大手「ラスベガス・サンズ」のシェルドン・アデルソン会長が11日、非ホジキンリンパ腫の合併症のため死去した。87歳だった。死去した場所は不明。同社が12日明らかにした。
コロナ禍によって保有資産の大部分を占めるラスベガスサンズ社の株式価格が減損したものの、2020年の世界長者番付では28位にランクインした、文字通り「カジノ業界の巨星」シェルドン・アデルソン氏。米国マサチューセッツ州のボストンで、タクシードライバーの息子として生誕し、ワンルームマンションの小さな一室で育った同氏は必ずしも裕福な生まれではありませんでした。
そんな彼が稀有な商才を示し始めたのは12歳の時、地元で小さなニューススタンド(日本でいうキオスクにあたるもの)を営業し始めたことにあります。当時彼が12歳で営業していたニューススタンドにおいて、子供向けのキャンディーマシン(「当たる」とキャンディーが貰える子供向けゲーム機)を設置運営していた事が、後のカジノ業界における成功につながったなどと、一部メディアなどでは報じられていますが、その真偽は判りません。その後、アデルソン氏は大学に進学するも、それを中退。同氏は座学よりも、専ら「実業」に興味があったと言います。
シェルドン・アデルソン氏が米国のビジネスコミュニティの中で広く知られる様になったのは、1979年同氏が48歳の時。コンピュータの利用が徐々に広がり、主にビジネスで利用される様になった初期の頃に彼が立ち上げたコンピュータ展示会「COMDEX」が世に知られる様になってからでした。その後、COMDEXはコンピュータの一般家庭への普及につれて着々と大きくなり急成長、世界最大のコンピュータの祭典として知られる様になりました。
そして、アデルソン氏が「カジノ」に関わることになったのは、1988年に彼が行ったラスベガスカジノ、Sandsの買収。但し、彼の当初の買収の目的は「カジノ」に重きがあったわけではなく、あくまで当時彼が主たる事業としていたMICEビジネスでした(※MICE:展示会や国際会議などの産業の総称)。
1980年代から大型リゾートホテルの開発が進み、一気に「世界のエンターテイメント首都」として知られるようになったラスベガスでありますが、同時にその街の持つ客室供給量の大きさに注目が集まり、「万人単位」の参加者を一挙に集める世界規模のコンベンションや見本市が毎年開催されるMICE都市としても知られるようになっていました。そして、そのラスベガスを拠点にしていた見本市の一つが、アデルソン氏が率いるCOMDEXであったわけで、同氏はそのMICE事業の拡大を目的として当時のSandsの買収を行ったのでした。アデルソン氏は、買収したSandsに隣接する用地に「Sands Expo&Convention Center」を建設、1990年に開業した同施設は開業当時、世界第2位の大型コンベンション施設として知られました。
1980年代当時から「MICE都市」として世界的に知られ始めていたラスベガスではありましたが、当時のMICEはあくまでカジノの本業であるエンターテイメントに付随するものであり、「主たる機能」ではなかったのも事実です。特に当時のラスベガスは、アデルソン氏と双璧をなすカジノ業界の「カリスマ経営者」として知られたスティーブ・ウィン氏の全盛の時代。スティーブ・ウィン氏は1980年代から1990年代末にかけて、まるでテーマパークの様なエンタメ特化型カジノ施設を市内で数多く開発し、そこに脚光が集まっていた時代でありました。一方で、アデルソン氏の買収した旧Sandsは、必ずしも当時ラスベガス内で流行していたエンタメ要素に強いカジノ施設ではなかった。寧ろ、当時はあくまで「付随する機能」でしかなかったMICE施設を中核とした相対的に「地味な」施設であったのは事実です。
ところが、その「地味な」存在であったSandsの経営を通して、MICE施設とカジノのハイブリット化という当時のカジノ業界には存在していなかった新しい施設開発の潮流を確たるものにしたのが、まさにシェルドン・アデルソン氏でありました。同氏は1990年に開業した自身の「Sands Expo&Convention Center」とそれに付随する施設の経営によって、このビジネスモデルの成功に確信を持ち、カジノ開発業者としての道を本格的に歩み始めます。
1995年、アデルソン氏は自身が保有していた「虎の子」であるCOMDEXの運営権を日本の孫正義氏が率いるソフトバンクに売却。そこで得た8億ドルを原資に老朽化していたカジノ施設の再開発を行いました。その様にして完成したのが1999年開業のベネチアン・ラスベガス。その後のシェルドン・アデルソン氏のカジノ開発における「マスターピース」となる施設でありました。ベネチアンは、当時のラスベガスにおいて最高級と称されたスティーブ・ウィン氏による代表的な開発施設・ベラージオと並んでラスベガスを代表する高級カジノとして知られる様になりましたが、一方でその開発コンセプトは全く異なります。ベネチアンはカジノを中核とし、ショッピングセンターなどエンタメ施設は内包していますが、その主たる機能はビジネスコンベンション向けの施設。「Sands Expo&Convention Center」を中心としてビジネス客を大量に集客し、同一施設内で宿泊機能、料飲機能、「ビフォーMICE&アフターMICE機能」すべてをオールインワンで提供する。その「ビフォーMICE&アフターMICE機能」としてギャンブルやその他エンタメ施設が提供されるというカジノ施設でありました。
それまで、ラスベガスはレジャー客を中心とした週末および長期休暇の稼働が中心の街でありましたが、アデルソン氏が興したMICEを中心とした開発コンセプトは逆に平日に開催されるMICEイベントを中心にビジネス客が集まり、週末は「出張時の延泊の楽しみ」として稼働する。Sands社は、この様なカジノ開発をそれまでのエンタメ施設を中核にレジャー客を集めるカジノと対比する形で「MICE型カジノ」と呼称しました。この開発コンセプトには業界同業他社も同様に追随する様になり、レジャーとMICEはカジノの稼働と収益を高め為の両輪となりました。この頃からシェルドン・アデルソン氏は先にご紹介したラスベガスにおけるエンタメ型カジノ開発の基礎を築いたスティーブ・ウィン氏と並びカジノ業界におけるカリスマ経営者の「二大巨頭」として数えられる様になります。
そして、何よりもこのアデルソン氏の業界への貢献は、ラスベガスに留まらず「カジノ合法化」を世界中に広めたことにあります。2000年代に入って、世界の主要国は国際観光競争の中で「ビジネス観光」分野の強化にこぞって乗り出し、そのひとつの大きな柱として「MICE振興」強く打ち出しました。その中でスポットライトが当てられたのが、シェルドン・アデルソン氏の想起した「MICE型カジノ」という開発様式。MICE機能のみならず、同一施設内で宿泊機能、料飲機能、「ビフォーMICE&アフターMICE機能」すべてをオールインワンで提供するこの様な施設開発の様式が、各国のMICE誘致にとって強力な武器になるということが社会的に評価されることとなり、これが各国のカジノ合法化の大きな一要因になりました。
そして、その世界中で広がるカジノ合法化の波に乗り、アデルソン氏率いるSands社は世界中の新市場へと進出。MICE型カジノ分野では追随する同業他社を寄せ付けない圧倒的な競争力を持って、世界中のあらゆる将来有望な新市場における競争入札で勝利。いつしかアデルソン氏率いるSands社は常勝軍団と呼ばれる様になり、世界最大のカジノ企業となりました。
今回、87歳で没したシェルドン・アデルソン氏でありますが、同氏は足腰が弱くなった晩年も電動車椅子とプライベートジェットで全世界中を飛び回り、精力的に活動していたことで知られています。また、晩年は冒頭でご紹介した通り多くの政治家のパトロンとしても知られる様になり、特に自身の出自であるユダヤ系米国人コミュニティの地位向上の為に様々に尽力をしたことでも知られています。ちなみにユダヤ教は必ずしもギャンブルを戒律で禁じているワケではありませんが、シェルドン・アデルソン氏自身はプライベートではギャンブルを好んで遊ばないことを事に触れて表明をしており、「ギャンブルをしないカジノ経営者」の代表格としてカジノ業界では知られていました。
同氏がカジノ業界内外にもたらした様々な業績は、永遠に歴史に刻まれることでしょう。親族、近親者の皆様方にはお悔やみを申し上げます。